2017年2月8日水曜日

小説第四話(完結) 足の無い梟――上泉伊勢守秘伝――


 秀綱たちが住吉城に着いた時には、夜はもう明けていた。

城はすでにきれいに片付けられていた。

 秀綱たちが若田ヶ原に突撃した際、最前線の陣を敷いたこの箕輪の支城も、今は武田の陣地になっていた。

 この城だけでなく、恐らく全ての砦が武田の手に落ちているに違いなかった。

箕輪城は一面の「風林火山」の旗に林のように囲まれていた。

広い武者だまりには虎口から見て左右に五名ずつの武者が侍っている。誰も鎧は着けていないがみな左手に木剣を下げていた。

――これが噂に聞く武田の小十人頭か、なるほど強そうだ――

疋田は鋭い視線をあちこちに走らせていた。小十人頭とは、信玄を直接警護する武田家選りすぐりの猛者である。

山県昌景、内藤昌秀などの音に聞こえた武将たちの姿が見えないのは、箕輪城包囲の前線にいるためなのだろう。

――城がまだ落とされていないというのはどうやら本当らしいな――

疋田は胸をなでおろす気分だった。

弓で狙われている気配はなかた。

住吉城は疋田と秀綱が住んでいる下芝砦とそう遠くないため、疋田は何度も訪れたことがあり、内部の構造もよく知っていた。

――もっとも太刀を取り上げている相手をそこまで警戒する必要もないか――

姫と亀寿丸とは途中で別れさせられていた。

「最寄りの寺にお預けいたしますからご安心くだされ」

穴山はそういって笑ったが、武田の陣地に近づくに従い、この小才子の態度が横柄になってゆくのが疋田には面白くなかった。

やがて左右の侍たちがうやうやしく一礼すると、正面奥にその男が姿をあらわした。

剃髪の頭に達磨のような髭を生やしている。

――思ったより痩せているな、それに……――

顔色も悪い。大国の領主と聞いて、美味いものをたらふく食って、でっぷりと太って血色の良い姿を想像していたが、まるで病人のようだと疋田は思った。

信玄も鎧は着けていなかったが、それでもやや大儀そうに奥の床机に腰を下ろした。

穴山がちゃっかりと、やや離れた隣の床机に腰掛けた。

穴山の後ろには平田藤九郎が立っている。

「上野の一本槍の噂はわしも聞いている」

信玄はゆっくりと口を開いた。

鋭い眼差しだが、それは一面、好奇心の強い子供のような光を湛えていた。

「だがわしも昨日この目で見るまでは、その強さが噂ほどであるか、いささか信じられなかった。しかしながら若田ヶ原でのそなたの働きぶり、敵ながら見事としかいいようがない」

「お恥ずかしゅうございます」

疋田の一歩前にいる秀綱が短く答えた。

「早速だが、そなたのその剣をわしの小姓たちにご教示願いたい、話はその後だ」

断れば即座に城を攻める。信玄は言外にそういっていた。

「だが、穴山の報告によると、そなたは昨日の戦の後、城を出てこの砦に至るまで山道を六里あまりも歩いて参ったそうだが、疲れておるのではないか」

信玄の問いに秀綱は首をかしげて答えた。

「戦いの勝敗は時の運もござりましょう、されど、二十里走った後でも心乱さず剣を振るのは兵法以前の武士の嗜みと心得ますが」

左右の小十人頭どもが、ざわざわと騒いだが、当の秀綱は妙なことを聞くものだ、とでもいいたげに独りぽかりとしていた。

信玄は右手を挙げて沈黙させると、「あっぱれである」と低くいった。

「ならば遠慮なくいたそう、立会いは木剣でやってもらうが、我が軍の調練では木剣とはいえ、怪我人はおろか死人が出ることも珍しからぬ、覚悟はよいかな」

秀綱は、今度は静かだがはっきりと答えた。

「剣とは本来人を守るためにあるもの、人が剣のために生きているのではありませぬ。新陰流では、怪我人も死人も出しませぬ、もとより我らは寡兵ゆえ、足軽一兵たりとも惜しうござります」

いいながら秀綱は目を閉じていた。瞼の裏にはまだ小さかった息子秀胤が顔から血を流し足下に倒れていた。

「泣くな愚か者、それで城が守れるか」

怒鳴りつける若い自分の声が聞こえた。

小十人の一人が「かかか」と笑い秀綱は目を開けた。

「それはそれは、お優しい剣でござるな、そのような優しいことをいっておられるゆえ、此度の戦に負けたのではありませぬかな」

信玄が「左近」と鋭くさえぎった。

「いいえ、殿、お許しくだされ、先ほどから黙って聞いておれば、こちらの上野の侍の饒舌なこと、口先だけならばいかようにも申せましょうに、見れば一本槍殿はかなりの御高齢のようだが、酒席の剣術談義でもなされたいのかな」

左近と呼ばれたやや年長の男がそういって笑うと、他の者たちも笑い出した。

――ふざけやがって――

疋田は奥歯をぎりりと鳴らした。

信玄はともかく、もともとこの連中には御前試合などという感覚はないのだ。

戦に勝った軍の兵士が、負けた軍の中で最も自分たちを手こずらせた相手を引き出して、総がかりで叩きのめすつもりなのだ。

「ならば左近、お主から行け」

信玄がやや大儀そうに声をかけると、左近は「おおう」と進み出た。

「新陰流など聞いたこともないわ、我らの剣は戦場で鍛えた本物の剣じゃ、狭苦しい道場などでやっておる余興などとは違うわ」

左近はそう吐き捨てて、どっしりと腰を落とし、自身満々に太刀を被り上段に構えた。

――介者剣術か――

疋田は心の中で鼻を鳴らした。

介者剣術とは、戦場の斬り合いを前提にした、鎧を着た状態で戦う剣術である。

――自信があるだけのことはある、だがあの構えは……――

「……悪しうござる」

秀綱が、まるで疋田の心を読んだようにそう呟いた。

「その構えは悪しうござる」

左近は「ぐう」と獣のように喉を鳴らした。

「袈裟斬りは剣が遠回りいたす、仮に貴殿が先(せん)をとったとて、それがしの唐竹(面打ち)が先に貴殿に届きましょう」

秀綱は、もう既に起こったことを説明するかのように、さらりといってのけた。つまり秀綱は左近が袈裟に斬ってくるのをいい当て、自分は唐竹で行くと宣告しているのだ。

「こっ、この爺いっ、早く構えぬか」

秀綱は両手に持った木剣をだらりと前に下げたままで「これで結構」といった。

――無形の位(むぎょうのくらい)――

この場にいる中で疋田一人がその意味を理解していた。それは、構えず五体の力を抜き、相手の動きに合わせて融通無碍に動く新陰流の極意であった。

「うおおおっ」

左近が声を裏返して吼え、突いてきた。

袈裟斬りをいい当てられた苦し紛れにしては、それは目にもとまらぬ速さである。

だが、瞬きもできぬほどの次の瞬間、左近は尻餅をついていた。

左近の木剣はすでに目の前に転がっている。

――きっ、斬られた……――

左近は不覚にも小便をもらしていた。

「これが一番速いのです」

秀綱が息の一つも乱さず、静かにいった。みな押し黙って言葉もなかった。

――一体なにが起こったのだ――

穴山は左近が突いてからのことを何度も思い返していた。確かに左近が先をとった、秀綱が動いたのはその後だった。

だが、秀綱の木剣は、穴山が今まで見たこともないほどの速さで動き、左近の剣を叩き落とした。そこまでは自分にも理解できる。

「新陰流、十文字勝(じゅうもんじがち)」

疋田は誰にも聞こえぬほどの声で呟いていた。秀綱は、疋田でさえ目で追いきれぬほどの速さで、木剣を二度振り下ろしていたのだ。

それは相手がどのように動こうと、自分の正中の前に剣を振り下ろす技であった。

左近は一刀目で木剣を落とされ、二刀目で面を斬られていた。しかも秀綱は敢えて手加減をして、左近の顔の手前の、ぎりぎりのところを斬ったのだった。

穴山がきょろきょろと、信玄と一同の顔を見比べながら、「次の者出でよ」と叫んだ。

信玄も瞬きをすることさえ忘れているようだった。

「はっ」と一人の若い侍が進み出た。

その構えを見て秀綱は再び「悪しうござる」と首を振った。

「最初から捨石になるおつもりでは、この秀綱は斬れませぬ」

若い侍は、右足を引いて、太刀を右脇に構えるいわゆる「脇構え」をとっていた。

最初から相打ちを狙い、秀綱に怪我を負わせ、次の者に仕留めさせる狙いを秀綱に見透かされたのだ。

「黙れい」

と男は木剣を右から薙いだが、結果は同じだった。

そして同じように次々と四人が倒された。

秀綱は汗ひとつかいていなかった。

――まずいぞ――

穴山は信玄の顔色を窺いながらうろたえていた。武田が誇る小十人頭が瞬時に六人も倒され、今七人目が秀綱と向かい合っていた。

 ――鎧袖一触とはこのことか――

 上泉という男がここまで強いとは。

 しかも秀綱は先ほど自身がいった通り、相手にも怪我をさせず、ことごとく余裕を持って勝っているのである。

 これでは自分が殿からお叱りを受けてしまう。そう思いながらきょろきょろしていると、なにやら虎口の外が騒がしくなっていた。

 「なにかあったのか」

 穴山が床机から立ち、小走りに外へ出てみると、前線からきた伝令が馬から降りるところだった。

 そしてこの伝令の報せは穴山を狂喜させた。

 「殿、お喜びくだされ」

 穴山は嬉々として信玄のもとに帰り、わざとみなに聞こえるように声を張り上げた。

 「若君が、勝頼さまが、見事、一番槍のお手柄を果たしましたぞ」

 「なんだと」

 信玄は驚いて床机から立ち上がった。

 「わしが指示を出すまで攻めるなと、あれほど念を押しておいたものを、おのれ四郎、抜け駆けしおって」

 穴山は内心にやりとしながら尚も続けた。

 「長野業盛どの他、一族は城にて自害なされたそうでござります」

 ――四郎の馬鹿者め、手柄を焦りおって、とうとうやりおった――

 穴山にとっては一石二鳥だった。勝頼は信玄から怒りを受けるであろうし、そして、一方秀綱は……。

 秀綱は悲しみのあまり木剣を落としていた。

 ――殿、あと半刻待ってくだされば――

 「それ、今だ、打たぬか」

 穴山は秀綱と立ち会っている侍にそう叫んだ。だが、秀綱は虚ろなまま懐に手を入れ、穴山はそれを見て仰天した。

 「な、なにをいたすか」

 秀綱は懐の梟を握り締めていたのだが、穴山はそうは取らなかった。

 「やつめ、なにか武器を隠しておるぞ、藤九郎、斬れ、その狼藉者を斬ってしまえ」

 ただ一人太刀を佩いていた平田が「おう」とそれを抜き、秀綱に襲いかかった。

 「うおおおっ」

 平田が秀綱に太刀を振り下ろしたその瞬間。

 「うわっ」

 平田は肘の関節を捻られ、地面に這いつくばっていた。平田の太刀は秀綱の右手にあり、太刀の切っ先は秀綱と立ち会っていた侍の目に既に付けられていた。

 「たっ、太刀を。無手で……」

 穴山の声が裏返ったのを合図のように、小十人頭全員が木剣を振りかざし、秀綱に駆け寄ろうとした。だが、疋田の動きの方がそれよりずっと速かった。

 秀綱の落とした木剣を拾い上げ、先に駆け寄ってきた五人を一気に叩き伏せると、

「見よや人々」

と怒りに任せてそう叫んでいた

「この未熟者の弟子にしてこの強さを、これでもわしなど先生の足元にも及ばぬがな」

そういって囲む小十人どもを睨みつける顔は怒りと涙で震えていた。

――先ほどからのこやつらの無礼の数々、そして亡き殿の恨み、こやつら一人として生かして甲斐になど返さぬ……信玄もじゃ――

その信玄はなにやら苦しげな顔で、腹から込み上げてくるなにかを呑みこむように胸を震わせて、床机にばたりと座り込むと、

「みな外へ出ておれ」

と言葉を搾り出すようにいった。

全員が耳を疑った。

「な、なんですと、しかし殿」

「黙れ穴山、先ほどからのお主の小鼠のような卑劣な振る舞い、この信玄の目は節穴ではないぞ」

全員が顔を見合わせていたが、やがてある者は倒れた仲間を抱え、ある者は足を引きずりながら虎口から出て行った。

自分と秀綱と疋田だけを残し、全員が出て行ったのを確かめると信玄は先ほどから抑え続けていた腹の中の物を吐き出すように、激しく咳き込んだ。

秀綱たちが近寄ろうとすると、左手の袖で口元を押さえながら右手を挙げた。

「構うな」といっているようだった。

わずかだが袖に血が付いているのが疋田からも見えた。

独り床机に腰掛け肩を震わせ喘ぐ大国の領主の姿は、憐れなほど寂しそうだった。

「斬らぬのか」

やがて信玄は顔を上げ、太刀を下げたままの秀綱にそう声をかけた。

「太刀は人を殺める道具にあらず、人を救うためのものにござります」

秀綱はそう答えた。

「人を救う……戦もそのはずじゃった、少なくともわしはそう思うて戦って参った」

信玄は悲しげな目をして虚空を見据えた。

「足軽一兵たりとも惜しい、か……もしそなたと同じ条件で戦こうていたらこの信玄といえど」

そう呟きながら、なにやら虚空の彼方に、楽しげな絵を想像しているようだったが、やがて大きくうなずき「忘己利他(もうこりた)」といって秀綱を見据えた。

「己を忘れ他を利する。わしはこの世を平らげた後、女子や子供でも安心して暮らせるような世に作り変えるつもりで戦って参った。そなたの剣にも同じ心を感じたが違うか」

「いかにも」

秀綱は答えた。

――初めて会った――

自分と同じ心を持つ者に。

「わしのそばにいてその心をともに一つにしてくれぬか。わしのためではなく天下のために」

秀綱は懐の梟を取り出しじっと見た。

――やはり武器ではなかったな――

信玄は梟を見てうなずいた。

「そのような重き足があっては思うように飛べませぬ、それはあなたさまもようお分かりのはず」

信玄は突き放された気分で目を閉じた。

――重き足、か――

苦しい、などというものではなかった。

広大な領地も、何万にも及ぶ大軍団も、それらは反面己を苦しめ続け、寿命すら縮めているほどなのだ。この秀綱ならば、そんな自分と心から解り合えるのではないか、信玄はふとそんな風に思ったのだが。

――愚痴を聞いてくれる相手にでもなって欲しかったか、天下のためが聞いて呆れるわ――

信玄は己の弱気を鼻で嗤い目を開けた。

顔は既に大国の領主のそれに戻っていた。

 「約束いたそう、亀寿丸君は我が子と同じと思うて教育をいたそう、投降して参る者は手厚く召抱えよう、そなたは、好きなように飛んでおられよ、だが気が変わったらいつでも戻って参るがよい、わしに仕えるでも斬りたくば斬るでもよい、歓迎いたす」

 戯言ともつかぬような軽口まで出た。

 秀綱は足下に太刀を置き、深く一礼した。

 「お体、天下のために大切になされませ」

 そういって踵を返した。

信玄は「大儀」といって笑ったが、秋の日差しに照らされたその笑顔はどこか、ひどく寂しげであった。

                  了
 
 

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