平田藤九郎が無言で自分のそばをすいと離れ、茂みの前で立小便を始めたのを穴山信君は咎めるでもなく、泣き腫らした目でその後ろ姿をぼんやりとながめていた。
河内領一といわれる兵法者の背中の肉の隆起がいかにも窮屈そうに胴の背板を内側から圧している。
永禄九年(1566年)九月二十九日の深夜である。今の暦でいえば十一月二日、甲斐の山奥ほどではないが西上野の山中もそれなりに冷えるのだ。
平田は茂みの奥の闇に向かって何度かうなずいてから、穴山に振り向いた。
「確認できました、城を出たのは業盛の子亀寿丸と藤鶴姫親子、従者は上泉秀綱他数人だそうです」
平田は小便をしながら素破(忍者)の報告を受けていたのだ。
「なんと」
穴山は目を見開いて何度も「まことか、まこと秀綱なんだろうな」と聞き返してから、
「なんという果報者なのだろうわしは」
と居待ち月の明かりの下、片口を吊り上げ、くくく、と笑った。
――今泣いたカラスが……――
平田は半ば呆れながら、
「いかがいたしましょうや」
と尋ねた。
「兵どもに、まず甲冑を脱ぐよう伝えよ」
「甲冑を……脱ぐのでありますか」
平田は目を丸くして聞き返した。
「今日の若田ヶ原での秀綱の強さを見たであろう、甲冑など役に立つものか」
穴山はつい先ほどまでとはうって変わって、軍師の顔に戻っていた。
「そして一行を囲ませよ、ただし、囲むといっても遠巻きに、ゆるゆるとついて歩く程度にいたせ、無理と気配を消す必要もない」
「それはどういうことで」
「黙っていう通りにいたせ」
他の落人など構うな。穴山はそうも付け加えた。
「しかし、連中はほんとうにここを通りましょうや」
「通るに決まっておろうが」
穴山は顔中に侮蔑をあらわにして、平田の顔をまじまじと見据えた。
「業盛の奥方藤鶴はもともと長尾家の娘、箕輪から落ちるとすれば、越後の春日山城あたりだ、連中がまともな頭を持っておるなら、当面倉渕三の倉を目指すであろう」
平田は、聞くのではなかった、と思いながら「御意」と答えた。
「もっとも、今日の若田ヶ原での、あの無謀な突撃を見る限り、あまりまともな頭とも思えんが」
穴山はそう毒づいてまたくくく、と笑った。
平田は小さくため息をついた。歳は自分より四つ上の二十五だったか。確かに非凡な智謀の持ち主らしいのだが、どこか節操がない。
「四郎めが城攻めの先鋒になりおった」
先ほどまでそういって子供のように泣いていたのだ。
四郎とは武田家の四男、勝頼である。
「十年もかけた、我々が心血を注いだこの戦の最後の城攻めを、初陣の青二才に手柄をたてさせるための茶番にするとは」
十年もかかっていた。
大武田軍が、西上野の一豪族にすぎぬ長野氏を相手に、十年も城を落とせなかったのだ。
長野家先代の当主、上野の虎といわれた長野業正の強さは尋常ではなかった。
箕輪城を中心に無数の砦を築き、丘陵の地形を存分に生かして、この榛名の裾野全体を一つの要塞のようにしていたのである。
――まるで蟻の巣、いや、毒蛇の群れのようだった――
個々の砦でいえばせいぜい百か二百名程度しか守りのいない弱小にすぎなかったが、これらがお互いに連携し合い、尻尾を踏めば頭が咬みついてくる、頭を抑えれば尻尾で叩かれ、胴を叩けば頭と尾と両方がくる。といった具合に武田軍を手玉にとってきたのである。
だが、その名将も病には勝てず五年前に他界。跡を継いだのは当時まだ十四歳の業盛だった。
その報せを聞いた信玄は大いに喜んだという。虎のいない虎の巣など、もはや恐るるに足らず。だが事はそう簡単には運ばなかった。
長野一族は兵士一人一人が、足軽の雑兵に至るまで、とんでもなく強いのだ。
現に今日の若田ヶ原の合戦でも、武田軍は二万の兵士のうち五千も斃されていた。たった千五百の寡兵に。
「これは恐らく、上泉なる者の調練によるものだろう」
信玄はそう嘆息したが、穴山は聞き逃さなかった、その時主は「是非会ってみたいものだ」ともらしたのである。
――それにしてもだ――
穴山は苛々と親指の爪を噛んだ。
――上野の一本槍かなんか知らんが、今日の四郎のあの醜態はなんだ、わしならもっとうまく戦ったものを――
合戦の総大将は勝頼だった。
御嫡息であられる義信さまを差しおいて、妾腹の四郎が総大将などと。
――しかもこのわしが、川中島以来の忠臣で武田家の親戚筋でもあるこのわしが――
穴山はこの戦で、足軽大将に降格されていた。だが、むしろこれはまだ厚遇といってよい。今の穴山はその首が胴とつながっているのも不思議なくらいなのだ。
というのも、この二年前の永禄七年に、武田家の嫡子である義信とその側近が信玄暗殺を企てていたことが露見し、義信は東光寺に幽閉、飯富虎昌、長坂昌国らの側近が処刑される、いわゆる「義信事件」が起こっており、この穴山の弟信邦も捕らえられ今は身延山久遠寺に監禁されているのである。
だが、この穴山という男はやはり非凡であった。城攻めの前線に加われぬと分かると、自ら落人狩りに志願したのである。
――なにも戦の手柄は城にだけ転がっているわけではなかろう――
とにかく、どんな汚れ仕事でも喜んで引き受けて見せて、我が殿晴信さまに忠義をお見せするのが第一。そして第二には、できるだけでかい鯉を釣り上げることだ。
「藤鶴姫は上野一の美貌だそうな」
長身の平田を、穴山の笑顔が見上げた。
平田のみたところ、この主が弟信邦の心配をする様子はまったくなかった。
「我が君晴信さまの好色は、恐らく甲斐の国一じゃ、上野の一本槍まで加わって、なんともばかでかい鯉が釣れたものよ」
そういって穴山はまた、くくくと笑った。
姫はともかく、秀綱まで一緒というのは、穴山にとって偶然の僥倖といえた。
「天運は我にあり。力押ししか能のない四郎めに、この戦の本当の一番槍が誰か、教えてくれん。さあ、わしらも具足を脱ぐぞ」
「わ、わたくしたちも、ですか」
「正面から戦って勝てぬ相手と、まともにぶつかる馬鹿がおるか、さあ、黙ってこれからわしのいう通りにいたさぬか」
つづく
つづく