2017年2月1日水曜日

小説第二話  足の無い梟――上泉伊勢守秘伝――


 どこかの木の梢で鳴いている梟の声に秀綱はしばし耳を傾けていた。歩きながら懐の木片を握り締めている。木片は鶏の卵ほどの大きさで、ちょうど形もそれに似ていた。

 業盛がまだ子供だったころ、秀綱が徒然に彫ってやった木彫りの梟だった。

 心の優しい童だった業盛は、たいそう喜んで、よくこれで遊んでくれたものだった。

 ――ついこの間まで赤子だったような気がしていたが――

 それだけ自分も歳をとったということか。

 秀綱は今年五十八になっていた。

 今年十九の業盛は本当の孫のようだった。

 ――とうとう説得できなかった――

 「城を捨て、越後に退却いたそう。わしらは一刻ほど敵をかく乱して後から参る」

 確かに業盛はそういった。

 だが恐らく殿は籠城なさっておられる。

 秀綱に姫と亀寿丸を託し、この梟を渡したのは、覚悟の表れと見て良いだろう。

 二人きりになった時、こっそり近づいてきてこれを渡された。

 「このような物、まだ持っておられたか」

 「もしわしの身になにか起こったら、姫と亀寿を頼む、あいつにもそなたの剣とその心を教えてやってくれないか」

 繰り返し退却を進言してきたが、ついに受け入れられなかったか。

 武田信玄という男は恐ろしい武将だった。

 圧倒的な戦力を持ちながらそれでも尚且つ力だけに頼らず、松井田、安中、倉賀野など回りの城から丁寧に攻め、あるいは籠絡して寝返らせ、根気よく周到に箕輪を囲み孤立させていったのだ。

 ――見事だった――

 しかも、力で脅してくる相手には頑として譲らないが、煽てや泣き落としに弱い上野の人間の気質までよく見抜いて、じわじわと籠絡して回ったようだった。

 そして昨日、ついに箕輪の西の守りの要である鷹留の城が落とされ、その上火までかけられ挑発されたのだった。

 若い業盛は上野武者の最後の意地を見せるべく、敢えてその挑発に乗ったのである。

 二万対千五百。

 胆(はら)を震わせ雄叫びを上げ、千五百の兵の列が一匹の竜のようになり、暴れるだけ暴れて城に戻った。総員決死の突撃だった。

 だが所詮は多勢に無勢。今ごろ城は完全に包囲されているだろう。

 ――城か……――

 秀綱ももともとは長野家から大胡の城を任された城主だったが、その大胡城は十一年前に北条に攻め獲られていた。

 戦国時代の初期、この上野という土地は非常に微妙な位置にあった。

 北に越後の長尾景虎(上杉謙信)西に甲斐の武田信玄、南に小田原の北条氏康という巨大勢力に囲まれ、特に長野氏にとって最も東側の端にあった大胡城は、つねに北条から強力な圧力を受け続け、城主であった秀綱は悩んだ結果、嫡子秀胤を人質として北条に差し出すなどして凌いでいたのだったが、結局北条に明け渡すことになってしまったのである。
 

 そしてその秀胤も二年前に死んだ。

 北条の家臣として下総の国府台の合戦につき従い、落命したのだという。

 秀胤に子供がいるらしいことは風の便りに聞いたが、いまだに顔すら見たことがない。

 まるで修羅の化身のようだと自分でも思う。

 まだもの心もつかぬころから、息子秀胤には徹底的に自分の剣術、新陰流を叩き込んだ。

 顔を腫らし流血し、倒れて泣いているのを、何度も引きずり上げて打ちのめした。

 その挙句、自分の城を守るために馬や山羊の子でもくれてやるように差し出したのだ。

 ――城とは本来人を守るための物、人が城のために生きているわけではないのだ――

 そんな単純なことに気づいたのは、自分が城も息子も失った後だった。

 「なまじ城などという『足』を持ったゆえの不幸よな」

 あの時、別れ際に業盛はそんな風にいって寂しげに笑った。

 秀綱は「はっ」と思い出した。

 あれは殿が七つになったころのことだ。

 「ねえ秀綱、この梟にはどうして足がないのだ」

 主業正のもとに年始の挨拶に大胡から出向いた秀綱に遊んで欲しくて、そんな難題をいって困らせたことがあった。

 ――あれには困ったな――

 武士である秀綱に、職人ほどの巧い細工などできる筈がない、梟の足まではとても彫れなかったのだ。

 梟は足のところで水平に切って、真っ直ぐ立つように作ってあった。

 「それはですな、若さま」

 秀綱は堪らず苦笑いをした。

 「そもそもこの梟には足など要らぬのです。足などなくとも、この梟には知恵と翼がございますゆえ、どこへでも飛んでゆき、この知恵で逞しく生きてゆけるのですよ」

 あの時苦し紛れにいった戯言を、殿はまだ憶えておられたか。

 亀寿丸が泣き出し、秀綱は我に返った。

 「乳を欲しておられるのでしょうかな」

 疋田文五郎が背中の藤鶴姫を降ろしてから、明るい声で振り返った。

 「いえ、わたしの抱き方が悪いのです」

 実直な佐藤信正が腕の中の赤子を姫に委ねながら、腹でも切りそうな悲痛な声で「どうかお許しくだされ」と言葉を搾り出した。

 「佐藤殿、赤子は泣いて乳を飲むのが仕事でござる、そんなに気を病まれますな」

 疋田が苦笑いをしながら佐藤の肩を叩いた。

 「一休みいたしましょう」

 殿(しんがり)の秀綱が後ろから声をかけると前方で藪こぎをしていた青柳忠家らが、鎌や鉈を下げて戻ってきた。みな疲労は隠せなかった。藤鶴と赤子の亀寿丸以外は、ここにいる全員が今日の戦に出ているのだ。

 「星がきれいでござるな」

 世話好きの疋田がなんとか姫を慰めようと、がらにもないことをいった。

 「日が出ておれば、このあたりからは赤木(赤城)と榛名がよく見えまする、そろそろ紅葉も色づく季節なのですがな」

 そういう疋田も今日の戦では三十人もの武者を斃(たお)してへとへとの筈だった。

 疋田という男は本当に面倒見が良い。

若い者に太刀や槍を教える際にも「その構えは良くない」などと、いちいち説明しながら立ち会うくらいなのだ。

 「すみませぬ、これでは追っ手に見つかってしまいますね」

 疋田に答える代わりに姫は消え入るような声でうなだれた。

 「なあに、例え見つかったとて、ここにいる猛者たちならば、百や二百の雑兵など軽くあしらってお目にかけますぞ、まあ殿の武勇には及びませぬが」

 「ほんとう」

 業盛の話になると、姫は急に目の色を輝かせた。

 今日の戦では秀綱も二十人ほど仕留めていた。数が疋田に及ばなかったのは、主に業盛の守護に回っていたためだったが、その他の佐藤や青柳も数名ずつ斃していた。

 「それはもう、殿お一人で数十人も斃されるものですから、我々など出る幕もないくらいでございましたぞ」

 「まあ」

 数十人は大げさだが、戦を見たことのない姫はすっかり信じ込んでしまったようだ。

 だが実際、長野業盛という武将は父業正に劣らぬ武勇の人であることに間違いはないのだが。

 「囲まれたようですね、先生」

 疋田が秀綱のところまで戻り、声を一段落として囁くと「そのようだな」と秀綱は首を揉みながら答えた。

 城を出てから一里ほど歩いたところで、誰かが尾けてきているのは分かっていたが、その人数がしだいに増えてゆき、つい先ほど完全に囲まれたのだ。

 今のところは佐藤や青柳さえ気づかないほど距離は離れていた。

 ――数は三十ほどか――

まったく問題にならぬ、と疋田は思った。ここにいる者だけで充分斬り伏せられる。

 だが、むやみに騒ぎを起こして、他の落人狩りに気づかれては面倒だし、血の臭いを嗅ぎつけて狼や野犬も集まってこよう。

 それに。

 「どうも兵士ではないようですが」

 「里の者たちか」

 武田自慢の素破にしては動きが鈍く気配も殺しきれていない。今ひとつ統制もとれていないようだ。

 それに甲冑をまとっている気配もなかった。

 落人にとって敵は相手方の兵士ばかりではない。戦でどちらにも加担しなかった近隣の野武士どもや、金や女を目当てに襲ってくる里の村人たち、果ては熊や狼なども恐ろしい敵といえた。
 

 疋田は一同を姫のところに集めた。

 亀寿丸はいつの間にか泣き止んでいて、母親の腕の中ですやすやと眠っている。

 「今より予ねてからの手はず通りにいたします、姫さまにおかれましては、これよりの我々の言動の無礼はどうかお許しくだされ」

 倉渕の商人夫婦とその父親の一行。人から聞かれたらそう名乗り逃れることにしていた。

 「なにかあったのですね」

 姫の声が震えていた。

 「いえいえ、ほんの数人ほど待ち伏せしておるようなのですが、どうやら兵士ではないようです、金子でも与えて話をつけます」

 ――金目当ての村人の乱取り(落人狩り)ならば、むしろ戦わずにすむかもしれん――

 疋田はそう考えていた。

 このころの村人の目的は、必ずしも金や女だけではないのだ。戦に次ぐ戦で田畑を荒らされ、金や食料や女を武士から奪われ続けている村人は武士を激しく憎んでおり、こんな時にはむしろ日ごろの恨みを晴らすべく待ち構えている者も多かった。

 つまり、武士ではないということであれば金だけ渡せば通してくれるかも知れぬのだ。

 ――前方で待ち構えているのがたった二人とはやはり素人の村人か、仕方がない金の交渉でもするか――

 疋田がそう思ったちょうどその時、月明かりで前方の二人の姿がはっきりと見えた。

 「な、なんだと」

 疋田は背中に寒気が走った。侍だった。

 甲冑は着ておらず、何故か太刀も佩いていないが、あれは村人ではない。

 しかも片方の、大柄な方の男はかなり出来る、そしてそれが疋田の若さに火をつけた。

 「文五」

 秀綱がそう叫んだ時には疋田はすでに駆け出し、太刀を抜いていた。

 先ほどまでとはまるで目の色が違った。まだ、昼間の戦の興奮が冷めていないのだ。

 一気に間合いが詰まる。あと数歩。だが。

 「お待ちしておりました」

 二人の男はそういって、体を折り曲げ額ずいたのである。
 
 つづく
 

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