2017年2月8日水曜日

小説第四話(完結) 足の無い梟――上泉伊勢守秘伝――


 秀綱たちが住吉城に着いた時には、夜はもう明けていた。

城はすでにきれいに片付けられていた。

 秀綱たちが若田ヶ原に突撃した際、最前線の陣を敷いたこの箕輪の支城も、今は武田の陣地になっていた。

 この城だけでなく、恐らく全ての砦が武田の手に落ちているに違いなかった。

箕輪城は一面の「風林火山」の旗に林のように囲まれていた。

広い武者だまりには虎口から見て左右に五名ずつの武者が侍っている。誰も鎧は着けていないがみな左手に木剣を下げていた。

――これが噂に聞く武田の小十人頭か、なるほど強そうだ――

疋田は鋭い視線をあちこちに走らせていた。小十人頭とは、信玄を直接警護する武田家選りすぐりの猛者である。

山県昌景、内藤昌秀などの音に聞こえた武将たちの姿が見えないのは、箕輪城包囲の前線にいるためなのだろう。

――城がまだ落とされていないというのはどうやら本当らしいな――

疋田は胸をなでおろす気分だった。

弓で狙われている気配はなかた。

住吉城は疋田と秀綱が住んでいる下芝砦とそう遠くないため、疋田は何度も訪れたことがあり、内部の構造もよく知っていた。

――もっとも太刀を取り上げている相手をそこまで警戒する必要もないか――

姫と亀寿丸とは途中で別れさせられていた。

「最寄りの寺にお預けいたしますからご安心くだされ」

穴山はそういって笑ったが、武田の陣地に近づくに従い、この小才子の態度が横柄になってゆくのが疋田には面白くなかった。

やがて左右の侍たちがうやうやしく一礼すると、正面奥にその男が姿をあらわした。

剃髪の頭に達磨のような髭を生やしている。

――思ったより痩せているな、それに……――

顔色も悪い。大国の領主と聞いて、美味いものをたらふく食って、でっぷりと太って血色の良い姿を想像していたが、まるで病人のようだと疋田は思った。

信玄も鎧は着けていなかったが、それでもやや大儀そうに奥の床机に腰を下ろした。

穴山がちゃっかりと、やや離れた隣の床机に腰掛けた。

穴山の後ろには平田藤九郎が立っている。

「上野の一本槍の噂はわしも聞いている」

信玄はゆっくりと口を開いた。

鋭い眼差しだが、それは一面、好奇心の強い子供のような光を湛えていた。

「だがわしも昨日この目で見るまでは、その強さが噂ほどであるか、いささか信じられなかった。しかしながら若田ヶ原でのそなたの働きぶり、敵ながら見事としかいいようがない」

「お恥ずかしゅうございます」

疋田の一歩前にいる秀綱が短く答えた。

「早速だが、そなたのその剣をわしの小姓たちにご教示願いたい、話はその後だ」

断れば即座に城を攻める。信玄は言外にそういっていた。

「だが、穴山の報告によると、そなたは昨日の戦の後、城を出てこの砦に至るまで山道を六里あまりも歩いて参ったそうだが、疲れておるのではないか」

信玄の問いに秀綱は首をかしげて答えた。

「戦いの勝敗は時の運もござりましょう、されど、二十里走った後でも心乱さず剣を振るのは兵法以前の武士の嗜みと心得ますが」

左右の小十人頭どもが、ざわざわと騒いだが、当の秀綱は妙なことを聞くものだ、とでもいいたげに独りぽかりとしていた。

信玄は右手を挙げて沈黙させると、「あっぱれである」と低くいった。

「ならば遠慮なくいたそう、立会いは木剣でやってもらうが、我が軍の調練では木剣とはいえ、怪我人はおろか死人が出ることも珍しからぬ、覚悟はよいかな」

秀綱は、今度は静かだがはっきりと答えた。

「剣とは本来人を守るためにあるもの、人が剣のために生きているのではありませぬ。新陰流では、怪我人も死人も出しませぬ、もとより我らは寡兵ゆえ、足軽一兵たりとも惜しうござります」

いいながら秀綱は目を閉じていた。瞼の裏にはまだ小さかった息子秀胤が顔から血を流し足下に倒れていた。

「泣くな愚か者、それで城が守れるか」

怒鳴りつける若い自分の声が聞こえた。

小十人の一人が「かかか」と笑い秀綱は目を開けた。

「それはそれは、お優しい剣でござるな、そのような優しいことをいっておられるゆえ、此度の戦に負けたのではありませぬかな」

信玄が「左近」と鋭くさえぎった。

「いいえ、殿、お許しくだされ、先ほどから黙って聞いておれば、こちらの上野の侍の饒舌なこと、口先だけならばいかようにも申せましょうに、見れば一本槍殿はかなりの御高齢のようだが、酒席の剣術談義でもなされたいのかな」

左近と呼ばれたやや年長の男がそういって笑うと、他の者たちも笑い出した。

――ふざけやがって――

疋田は奥歯をぎりりと鳴らした。

信玄はともかく、もともとこの連中には御前試合などという感覚はないのだ。

戦に勝った軍の兵士が、負けた軍の中で最も自分たちを手こずらせた相手を引き出して、総がかりで叩きのめすつもりなのだ。

「ならば左近、お主から行け」

信玄がやや大儀そうに声をかけると、左近は「おおう」と進み出た。

「新陰流など聞いたこともないわ、我らの剣は戦場で鍛えた本物の剣じゃ、狭苦しい道場などでやっておる余興などとは違うわ」

左近はそう吐き捨てて、どっしりと腰を落とし、自身満々に太刀を被り上段に構えた。

――介者剣術か――

疋田は心の中で鼻を鳴らした。

介者剣術とは、戦場の斬り合いを前提にした、鎧を着た状態で戦う剣術である。

――自信があるだけのことはある、だがあの構えは……――

「……悪しうござる」

秀綱が、まるで疋田の心を読んだようにそう呟いた。

「その構えは悪しうござる」

左近は「ぐう」と獣のように喉を鳴らした。

「袈裟斬りは剣が遠回りいたす、仮に貴殿が先(せん)をとったとて、それがしの唐竹(面打ち)が先に貴殿に届きましょう」

秀綱は、もう既に起こったことを説明するかのように、さらりといってのけた。つまり秀綱は左近が袈裟に斬ってくるのをいい当て、自分は唐竹で行くと宣告しているのだ。

「こっ、この爺いっ、早く構えぬか」

秀綱は両手に持った木剣をだらりと前に下げたままで「これで結構」といった。

――無形の位(むぎょうのくらい)――

この場にいる中で疋田一人がその意味を理解していた。それは、構えず五体の力を抜き、相手の動きに合わせて融通無碍に動く新陰流の極意であった。

「うおおおっ」

左近が声を裏返して吼え、突いてきた。

袈裟斬りをいい当てられた苦し紛れにしては、それは目にもとまらぬ速さである。

だが、瞬きもできぬほどの次の瞬間、左近は尻餅をついていた。

左近の木剣はすでに目の前に転がっている。

――きっ、斬られた……――

左近は不覚にも小便をもらしていた。

「これが一番速いのです」

秀綱が息の一つも乱さず、静かにいった。みな押し黙って言葉もなかった。

――一体なにが起こったのだ――

穴山は左近が突いてからのことを何度も思い返していた。確かに左近が先をとった、秀綱が動いたのはその後だった。

だが、秀綱の木剣は、穴山が今まで見たこともないほどの速さで動き、左近の剣を叩き落とした。そこまでは自分にも理解できる。

「新陰流、十文字勝(じゅうもんじがち)」

疋田は誰にも聞こえぬほどの声で呟いていた。秀綱は、疋田でさえ目で追いきれぬほどの速さで、木剣を二度振り下ろしていたのだ。

それは相手がどのように動こうと、自分の正中の前に剣を振り下ろす技であった。

左近は一刀目で木剣を落とされ、二刀目で面を斬られていた。しかも秀綱は敢えて手加減をして、左近の顔の手前の、ぎりぎりのところを斬ったのだった。

穴山がきょろきょろと、信玄と一同の顔を見比べながら、「次の者出でよ」と叫んだ。

信玄も瞬きをすることさえ忘れているようだった。

「はっ」と一人の若い侍が進み出た。

その構えを見て秀綱は再び「悪しうござる」と首を振った。

「最初から捨石になるおつもりでは、この秀綱は斬れませぬ」

若い侍は、右足を引いて、太刀を右脇に構えるいわゆる「脇構え」をとっていた。

最初から相打ちを狙い、秀綱に怪我を負わせ、次の者に仕留めさせる狙いを秀綱に見透かされたのだ。

「黙れい」

と男は木剣を右から薙いだが、結果は同じだった。

そして同じように次々と四人が倒された。

秀綱は汗ひとつかいていなかった。

――まずいぞ――

穴山は信玄の顔色を窺いながらうろたえていた。武田が誇る小十人頭が瞬時に六人も倒され、今七人目が秀綱と向かい合っていた。

 ――鎧袖一触とはこのことか――

 上泉という男がここまで強いとは。

 しかも秀綱は先ほど自身がいった通り、相手にも怪我をさせず、ことごとく余裕を持って勝っているのである。

 これでは自分が殿からお叱りを受けてしまう。そう思いながらきょろきょろしていると、なにやら虎口の外が騒がしくなっていた。

 「なにかあったのか」

 穴山が床机から立ち、小走りに外へ出てみると、前線からきた伝令が馬から降りるところだった。

 そしてこの伝令の報せは穴山を狂喜させた。

 「殿、お喜びくだされ」

 穴山は嬉々として信玄のもとに帰り、わざとみなに聞こえるように声を張り上げた。

 「若君が、勝頼さまが、見事、一番槍のお手柄を果たしましたぞ」

 「なんだと」

 信玄は驚いて床机から立ち上がった。

 「わしが指示を出すまで攻めるなと、あれほど念を押しておいたものを、おのれ四郎、抜け駆けしおって」

 穴山は内心にやりとしながら尚も続けた。

 「長野業盛どの他、一族は城にて自害なされたそうでござります」

 ――四郎の馬鹿者め、手柄を焦りおって、とうとうやりおった――

 穴山にとっては一石二鳥だった。勝頼は信玄から怒りを受けるであろうし、そして、一方秀綱は……。

 秀綱は悲しみのあまり木剣を落としていた。

 ――殿、あと半刻待ってくだされば――

 「それ、今だ、打たぬか」

 穴山は秀綱と立ち会っている侍にそう叫んだ。だが、秀綱は虚ろなまま懐に手を入れ、穴山はそれを見て仰天した。

 「な、なにをいたすか」

 秀綱は懐の梟を握り締めていたのだが、穴山はそうは取らなかった。

 「やつめ、なにか武器を隠しておるぞ、藤九郎、斬れ、その狼藉者を斬ってしまえ」

 ただ一人太刀を佩いていた平田が「おう」とそれを抜き、秀綱に襲いかかった。

 「うおおおっ」

 平田が秀綱に太刀を振り下ろしたその瞬間。

 「うわっ」

 平田は肘の関節を捻られ、地面に這いつくばっていた。平田の太刀は秀綱の右手にあり、太刀の切っ先は秀綱と立ち会っていた侍の目に既に付けられていた。

 「たっ、太刀を。無手で……」

 穴山の声が裏返ったのを合図のように、小十人頭全員が木剣を振りかざし、秀綱に駆け寄ろうとした。だが、疋田の動きの方がそれよりずっと速かった。

 秀綱の落とした木剣を拾い上げ、先に駆け寄ってきた五人を一気に叩き伏せると、

「見よや人々」

と怒りに任せてそう叫んでいた

「この未熟者の弟子にしてこの強さを、これでもわしなど先生の足元にも及ばぬがな」

そういって囲む小十人どもを睨みつける顔は怒りと涙で震えていた。

――先ほどからのこやつらの無礼の数々、そして亡き殿の恨み、こやつら一人として生かして甲斐になど返さぬ……信玄もじゃ――

その信玄はなにやら苦しげな顔で、腹から込み上げてくるなにかを呑みこむように胸を震わせて、床机にばたりと座り込むと、

「みな外へ出ておれ」

と言葉を搾り出すようにいった。

全員が耳を疑った。

「な、なんですと、しかし殿」

「黙れ穴山、先ほどからのお主の小鼠のような卑劣な振る舞い、この信玄の目は節穴ではないぞ」

全員が顔を見合わせていたが、やがてある者は倒れた仲間を抱え、ある者は足を引きずりながら虎口から出て行った。

自分と秀綱と疋田だけを残し、全員が出て行ったのを確かめると信玄は先ほどから抑え続けていた腹の中の物を吐き出すように、激しく咳き込んだ。

秀綱たちが近寄ろうとすると、左手の袖で口元を押さえながら右手を挙げた。

「構うな」といっているようだった。

わずかだが袖に血が付いているのが疋田からも見えた。

独り床机に腰掛け肩を震わせ喘ぐ大国の領主の姿は、憐れなほど寂しそうだった。

「斬らぬのか」

やがて信玄は顔を上げ、太刀を下げたままの秀綱にそう声をかけた。

「太刀は人を殺める道具にあらず、人を救うためのものにござります」

秀綱はそう答えた。

「人を救う……戦もそのはずじゃった、少なくともわしはそう思うて戦って参った」

信玄は悲しげな目をして虚空を見据えた。

「足軽一兵たりとも惜しい、か……もしそなたと同じ条件で戦こうていたらこの信玄といえど」

そう呟きながら、なにやら虚空の彼方に、楽しげな絵を想像しているようだったが、やがて大きくうなずき「忘己利他(もうこりた)」といって秀綱を見据えた。

「己を忘れ他を利する。わしはこの世を平らげた後、女子や子供でも安心して暮らせるような世に作り変えるつもりで戦って参った。そなたの剣にも同じ心を感じたが違うか」

「いかにも」

秀綱は答えた。

――初めて会った――

自分と同じ心を持つ者に。

「わしのそばにいてその心をともに一つにしてくれぬか。わしのためではなく天下のために」

秀綱は懐の梟を取り出しじっと見た。

――やはり武器ではなかったな――

信玄は梟を見てうなずいた。

「そのような重き足があっては思うように飛べませぬ、それはあなたさまもようお分かりのはず」

信玄は突き放された気分で目を閉じた。

――重き足、か――

苦しい、などというものではなかった。

広大な領地も、何万にも及ぶ大軍団も、それらは反面己を苦しめ続け、寿命すら縮めているほどなのだ。この秀綱ならば、そんな自分と心から解り合えるのではないか、信玄はふとそんな風に思ったのだが。

――愚痴を聞いてくれる相手にでもなって欲しかったか、天下のためが聞いて呆れるわ――

信玄は己の弱気を鼻で嗤い目を開けた。

顔は既に大国の領主のそれに戻っていた。

 「約束いたそう、亀寿丸君は我が子と同じと思うて教育をいたそう、投降して参る者は手厚く召抱えよう、そなたは、好きなように飛んでおられよ、だが気が変わったらいつでも戻って参るがよい、わしに仕えるでも斬りたくば斬るでもよい、歓迎いたす」

 戯言ともつかぬような軽口まで出た。

 秀綱は足下に太刀を置き、深く一礼した。

 「お体、天下のために大切になされませ」

 そういって踵を返した。

信玄は「大儀」といって笑ったが、秋の日差しに照らされたその笑顔はどこか、ひどく寂しげであった。

                  了
 
 

2017年2月4日土曜日

小説第三話  足の無い梟――上泉伊勢守秘伝――



 「みたか藤九郎、どんなに達人でも平伏している人間というのは斬れんものなのじゃ」

 穴山が地面を間近に見ながら、横にいる平田にそううそぶいて見せたが、さすがに声は震えていた。

 「上泉秀綱さまの御一行とお見受けいたしますが」

 二呼吸ほど間があいて「いかにも」と、剣を抜いた男の後ろから聞こえてきた。

 「どうか太刀を収めてくだされ、決して悪い話ではござらぬ」

 さきほど「文五」と呼ばれた男は、後からきた男の顔を見て、剣を収めた。

 「拙者、武田さまの家臣穴山信君、これなるは平田藤九郎と申す」

 「穴山……」

 後からきた一同が異口同音に呟き、顔を見合わせた。

 「武田家の重臣ではないか」

 と誰かがいった。

 「ま、まさか、もう、お城が……」

 藤鶴姫が、声にならない声を震わせた。

 「いえいえ、城は完全に我が軍が囲んでおりますが、まだ攻めてはおりませぬ」

 穴山の目が抜け目なく光り一同を見回す。

 「殿は、退却なされなかったのですか」

 姫は膝から崩れ泣き出してしまった。

 「見事な御覚悟です、ですがまだ御健在ゆえ御安心くだされ」

 穴山が得意げに声を張り上げた。

 「では何故軍師である貴殿がこんなところにおられるのか」

 疋田が今にも斬りかからんばかりに詰め寄る。

 「そ、それは、ですな……」

 穴山は一度、「コンコン」と狐のように咳払いをした。

 「この度拙者、我が殿より特命を賜わりまして、上野の一本槍との御武名高き上泉秀綱さまをお招きするよう仰せつかり、こうして参上した次第」

 一同がざわりとする中、秀綱だけが呼吸一つ乱していないことが穴山を焦らせた。

 「我が殿のお望みは、まず箕輪の城、ですがその城と等価値、あるいはそれ以上に上野の一本槍さまを御所望いたしておられるのです、もちろん無条件に寝返れ、などとあなたさまの御忠心を蔑ろにしておるわけではありません、ここにおられるみなさんの御身の安全はこの拙者が約束いたしましょう」

 一気にそうまくし立てた。

 秀綱は懐に手を入れて、深く考え込んでいる様子だった。

 「あなたがたならば我々を斃すことくらいわけもないことでござろう、だが、この先姫と亀寿丸君の安全の保証はできますかな」

 疋田たちの背後に、囲んでいた穴山の手の者たちが、わらわらと詰め寄ってきた。

 みな甲冑を着けていなかった。

――騙された――

疋田は悔やんだ。まさかこんなところで軍師が計略をめぐらせているとは。だが、ここまで近づかれてはもう姫と亀寿丸が危ない。

 穴山は慣れた口ぶりで、次々と交渉の条件を挙げてきた。

 「さてさて、上泉どのの御返答次第では、箕輪城におられる業盛どののお命も救えるやも知れませぬが、いかがか」
 
 つづく
 

 

2017年2月1日水曜日

小説第二話  足の無い梟――上泉伊勢守秘伝――


 どこかの木の梢で鳴いている梟の声に秀綱はしばし耳を傾けていた。歩きながら懐の木片を握り締めている。木片は鶏の卵ほどの大きさで、ちょうど形もそれに似ていた。

 業盛がまだ子供だったころ、秀綱が徒然に彫ってやった木彫りの梟だった。

 心の優しい童だった業盛は、たいそう喜んで、よくこれで遊んでくれたものだった。

 ――ついこの間まで赤子だったような気がしていたが――

 それだけ自分も歳をとったということか。

 秀綱は今年五十八になっていた。

 今年十九の業盛は本当の孫のようだった。

 ――とうとう説得できなかった――

 「城を捨て、越後に退却いたそう。わしらは一刻ほど敵をかく乱して後から参る」

 確かに業盛はそういった。

 だが恐らく殿は籠城なさっておられる。

 秀綱に姫と亀寿丸を託し、この梟を渡したのは、覚悟の表れと見て良いだろう。

 二人きりになった時、こっそり近づいてきてこれを渡された。

 「このような物、まだ持っておられたか」

 「もしわしの身になにか起こったら、姫と亀寿を頼む、あいつにもそなたの剣とその心を教えてやってくれないか」

 繰り返し退却を進言してきたが、ついに受け入れられなかったか。

 武田信玄という男は恐ろしい武将だった。

 圧倒的な戦力を持ちながらそれでも尚且つ力だけに頼らず、松井田、安中、倉賀野など回りの城から丁寧に攻め、あるいは籠絡して寝返らせ、根気よく周到に箕輪を囲み孤立させていったのだ。

 ――見事だった――

 しかも、力で脅してくる相手には頑として譲らないが、煽てや泣き落としに弱い上野の人間の気質までよく見抜いて、じわじわと籠絡して回ったようだった。

 そして昨日、ついに箕輪の西の守りの要である鷹留の城が落とされ、その上火までかけられ挑発されたのだった。

 若い業盛は上野武者の最後の意地を見せるべく、敢えてその挑発に乗ったのである。

 二万対千五百。

 胆(はら)を震わせ雄叫びを上げ、千五百の兵の列が一匹の竜のようになり、暴れるだけ暴れて城に戻った。総員決死の突撃だった。

 だが所詮は多勢に無勢。今ごろ城は完全に包囲されているだろう。

 ――城か……――

 秀綱ももともとは長野家から大胡の城を任された城主だったが、その大胡城は十一年前に北条に攻め獲られていた。

 戦国時代の初期、この上野という土地は非常に微妙な位置にあった。

 北に越後の長尾景虎(上杉謙信)西に甲斐の武田信玄、南に小田原の北条氏康という巨大勢力に囲まれ、特に長野氏にとって最も東側の端にあった大胡城は、つねに北条から強力な圧力を受け続け、城主であった秀綱は悩んだ結果、嫡子秀胤を人質として北条に差し出すなどして凌いでいたのだったが、結局北条に明け渡すことになってしまったのである。
 

 そしてその秀胤も二年前に死んだ。

 北条の家臣として下総の国府台の合戦につき従い、落命したのだという。

 秀胤に子供がいるらしいことは風の便りに聞いたが、いまだに顔すら見たことがない。

 まるで修羅の化身のようだと自分でも思う。

 まだもの心もつかぬころから、息子秀胤には徹底的に自分の剣術、新陰流を叩き込んだ。

 顔を腫らし流血し、倒れて泣いているのを、何度も引きずり上げて打ちのめした。

 その挙句、自分の城を守るために馬や山羊の子でもくれてやるように差し出したのだ。

 ――城とは本来人を守るための物、人が城のために生きているわけではないのだ――

 そんな単純なことに気づいたのは、自分が城も息子も失った後だった。

 「なまじ城などという『足』を持ったゆえの不幸よな」

 あの時、別れ際に業盛はそんな風にいって寂しげに笑った。

 秀綱は「はっ」と思い出した。

 あれは殿が七つになったころのことだ。

 「ねえ秀綱、この梟にはどうして足がないのだ」

 主業正のもとに年始の挨拶に大胡から出向いた秀綱に遊んで欲しくて、そんな難題をいって困らせたことがあった。

 ――あれには困ったな――

 武士である秀綱に、職人ほどの巧い細工などできる筈がない、梟の足まではとても彫れなかったのだ。

 梟は足のところで水平に切って、真っ直ぐ立つように作ってあった。

 「それはですな、若さま」

 秀綱は堪らず苦笑いをした。

 「そもそもこの梟には足など要らぬのです。足などなくとも、この梟には知恵と翼がございますゆえ、どこへでも飛んでゆき、この知恵で逞しく生きてゆけるのですよ」

 あの時苦し紛れにいった戯言を、殿はまだ憶えておられたか。

 亀寿丸が泣き出し、秀綱は我に返った。

 「乳を欲しておられるのでしょうかな」

 疋田文五郎が背中の藤鶴姫を降ろしてから、明るい声で振り返った。

 「いえ、わたしの抱き方が悪いのです」

 実直な佐藤信正が腕の中の赤子を姫に委ねながら、腹でも切りそうな悲痛な声で「どうかお許しくだされ」と言葉を搾り出した。

 「佐藤殿、赤子は泣いて乳を飲むのが仕事でござる、そんなに気を病まれますな」

 疋田が苦笑いをしながら佐藤の肩を叩いた。

 「一休みいたしましょう」

 殿(しんがり)の秀綱が後ろから声をかけると前方で藪こぎをしていた青柳忠家らが、鎌や鉈を下げて戻ってきた。みな疲労は隠せなかった。藤鶴と赤子の亀寿丸以外は、ここにいる全員が今日の戦に出ているのだ。

 「星がきれいでござるな」

 世話好きの疋田がなんとか姫を慰めようと、がらにもないことをいった。

 「日が出ておれば、このあたりからは赤木(赤城)と榛名がよく見えまする、そろそろ紅葉も色づく季節なのですがな」

 そういう疋田も今日の戦では三十人もの武者を斃(たお)してへとへとの筈だった。

 疋田という男は本当に面倒見が良い。

若い者に太刀や槍を教える際にも「その構えは良くない」などと、いちいち説明しながら立ち会うくらいなのだ。

 「すみませぬ、これでは追っ手に見つかってしまいますね」

 疋田に答える代わりに姫は消え入るような声でうなだれた。

 「なあに、例え見つかったとて、ここにいる猛者たちならば、百や二百の雑兵など軽くあしらってお目にかけますぞ、まあ殿の武勇には及びませぬが」

 「ほんとう」

 業盛の話になると、姫は急に目の色を輝かせた。

 今日の戦では秀綱も二十人ほど仕留めていた。数が疋田に及ばなかったのは、主に業盛の守護に回っていたためだったが、その他の佐藤や青柳も数名ずつ斃していた。

 「それはもう、殿お一人で数十人も斃されるものですから、我々など出る幕もないくらいでございましたぞ」

 「まあ」

 数十人は大げさだが、戦を見たことのない姫はすっかり信じ込んでしまったようだ。

 だが実際、長野業盛という武将は父業正に劣らぬ武勇の人であることに間違いはないのだが。

 「囲まれたようですね、先生」

 疋田が秀綱のところまで戻り、声を一段落として囁くと「そのようだな」と秀綱は首を揉みながら答えた。

 城を出てから一里ほど歩いたところで、誰かが尾けてきているのは分かっていたが、その人数がしだいに増えてゆき、つい先ほど完全に囲まれたのだ。

 今のところは佐藤や青柳さえ気づかないほど距離は離れていた。

 ――数は三十ほどか――

まったく問題にならぬ、と疋田は思った。ここにいる者だけで充分斬り伏せられる。

 だが、むやみに騒ぎを起こして、他の落人狩りに気づかれては面倒だし、血の臭いを嗅ぎつけて狼や野犬も集まってこよう。

 それに。

 「どうも兵士ではないようですが」

 「里の者たちか」

 武田自慢の素破にしては動きが鈍く気配も殺しきれていない。今ひとつ統制もとれていないようだ。

 それに甲冑をまとっている気配もなかった。

 落人にとって敵は相手方の兵士ばかりではない。戦でどちらにも加担しなかった近隣の野武士どもや、金や女を目当てに襲ってくる里の村人たち、果ては熊や狼なども恐ろしい敵といえた。
 

 疋田は一同を姫のところに集めた。

 亀寿丸はいつの間にか泣き止んでいて、母親の腕の中ですやすやと眠っている。

 「今より予ねてからの手はず通りにいたします、姫さまにおかれましては、これよりの我々の言動の無礼はどうかお許しくだされ」

 倉渕の商人夫婦とその父親の一行。人から聞かれたらそう名乗り逃れることにしていた。

 「なにかあったのですね」

 姫の声が震えていた。

 「いえいえ、ほんの数人ほど待ち伏せしておるようなのですが、どうやら兵士ではないようです、金子でも与えて話をつけます」

 ――金目当ての村人の乱取り(落人狩り)ならば、むしろ戦わずにすむかもしれん――

 疋田はそう考えていた。

 このころの村人の目的は、必ずしも金や女だけではないのだ。戦に次ぐ戦で田畑を荒らされ、金や食料や女を武士から奪われ続けている村人は武士を激しく憎んでおり、こんな時にはむしろ日ごろの恨みを晴らすべく待ち構えている者も多かった。

 つまり、武士ではないということであれば金だけ渡せば通してくれるかも知れぬのだ。

 ――前方で待ち構えているのがたった二人とはやはり素人の村人か、仕方がない金の交渉でもするか――

 疋田がそう思ったちょうどその時、月明かりで前方の二人の姿がはっきりと見えた。

 「な、なんだと」

 疋田は背中に寒気が走った。侍だった。

 甲冑は着ておらず、何故か太刀も佩いていないが、あれは村人ではない。

 しかも片方の、大柄な方の男はかなり出来る、そしてそれが疋田の若さに火をつけた。

 「文五」

 秀綱がそう叫んだ時には疋田はすでに駆け出し、太刀を抜いていた。

 先ほどまでとはまるで目の色が違った。まだ、昼間の戦の興奮が冷めていないのだ。

 一気に間合いが詰まる。あと数歩。だが。

 「お待ちしておりました」

 二人の男はそういって、体を折り曲げ額ずいたのである。
 
 つづく