箕輪城のことを書いた小説で佳作をいただいておきながら、大変お恥ずかしい話ですが、私は箕輪城に行ったことがありませんでした。
今回やっと訪問することができまして、お礼も兼ねてすみからすみまで歩き回ってまいりました。
搦手口の駐車場
かなり広い
駐車場から見た城址
本丸址との高低差は20mくらいありそうです。
搦手口から入ると結構急な坂があります。
「猪に注意」という立て札がありましたが、ほんとに出そうなくらい深い森になっています。
坂を登るとすぐに二の丸址に出る。
公園のようになっていてトイレもあります。
二の丸から見えた景色、空が曇っているのが残念。
本丸と二の丸の間にある堀切。
当時ほとんど鍬だけで掘ったと書いてありました。
本丸門馬出し址
本丸。
かなり広い。
本丸からさっきの駐車場が見下ろせる。
本丸を奥に進むと御前曲輪址があります。
武田信玄に攻められ敗れた際、城主であられた長野業盛公は、ここで一族郎党とともに自害なされたそうです。
御前曲輪を奥に進むと階段がある。
方向的には城の東北側で、搦手口の駐車場側になります。
階段を降りて行くと「丸馬出」「親曲輪」「稲荷曲輪」と続いてます。
稲荷曲輪址
振り返って、さっき降りた階段。
このまま戻って、この階段の前を通って裏に行きました。
今でこそ「搦手」になっていますが、長野氏が使っていた当時は「搦手口」が大手門だったそうですから、城の西側は裏側ということになるかと思います。
ほとんどハイキング気分。
西側の堀切
写真には写っていませんが、意外と人がきていて、一回りする間に10人くらいすれ違いました。
今時の歴史ブームを反映してか、歴女と思われる若い女性もいました。
蔵屋敷址
三の丸址
ここでだいたい一周したことになります。
三の丸あたりから見下ろした高崎市。
ここから高崎市街地まで、ゆるやかな丘陵の坂になってます。
長野業正・業盛親子はこの榛名の裾野を利用して、この箕輪城を中心に無数の砦を築き武田軍を十年にもわたって苦しめ続けたわけですね。
万歩計を見たら、いつの間にか1万歩以上も歩いていました。
かなり歩きでのある広さでしたが、所々親切に「現在地」と記された地図の立て札が立っていたので、迷うことなく一周できました。
↓下の群馬県高崎市…をクリックすると地図が見られます。
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